研究者になれると思ってる勘違い

 同じ学科の男がTwitterで、宮崎駿の映画の解釈をみんながしてることについて、「解釈が委ねられてるところが文学だなと」思ったみたいなこと書いてて本当にこの人は勉強しないなって思った。こいつの軽薄な知識から言ってバルトのこといってるつもりなんだろうけど、この人にとって文学理論というかテクスト論は、読者に委ねられていることっていうものでしかないんだろうな。そもそも『物語の構造分析』すら読んでないだろうな。

 この人と同じゼミの人も、文学理論全く勉強してないのに、文学理論的なことを言いたがる人ばっかり。「表象不可能性」とか言ってるけど、誰の言葉か知ってますか、そして、その言葉の背景を知ってるんでしょうか。知らないでしょうね。意味も解ってないみたいだし。その中の二人が大学院受験するらしい。ひとりが2年生の頃から研究者になりたいとかいってた女で、もうひとりがその女の話し相手になってあげてるのか、なってるのかよく一緒にいる女。後者は勉強してないだろうな。前者も、勉強してるつもりで、全くわかってない。この人が指導教官にしたい人の単著が、ずっと附属図書館で貸出中になってるし、指導教官が大学院受験の参考書としておすすめしてた本も最近から貸出中になってる。ワロタ。他の勉強してますか。落ちてほしいな。邪魔だから。後者は絶対落ちてほしい。本当に受かるなよ。

 こういう馬鹿大学にいると勘違いが生れてしまうんだろうな。悲しい事です。この大学が馬鹿大学と思ってない人もめちゃくちゃいる。この県が閉鎖的なんだよな。